Conjunto Domesticoの歴史


Last update: Ago 2/2014

Conjunto Domestico全ステージ記録はこちら

<萌芽>

1978年秋というにはまだ暑い9月、某名古屋西高校の文化祭内のコンサート「ロックフォーク祭(だったけ?)」予選にHyde丹羽率いるサンタナコピーバンド"Mariachi"が出場、見事に予選落ち(一応次点らしい)。演奏曲目は「哀愁のヨーロッパ」。当時、Hyde=Guitar、横井=Conga。横井がなぜ加わることになったかは、今となっては誰も知らないが、これが、タダの同級生から道を踏み外す第一歩であったことには間違いない。

<孵化前夜>

1980年東京調布の某大学軽音楽部−それまでサンタナコピーしか考えていなかったHyde丹羽。ここでもバンド名"Mariachi"を使い、念願のサンタナコピーバンドを結成。だが、当時、まともなパーカッション奏者が大学の軽音楽部にいるはずもなく、Hyde丹羽みずからパーカッションクリニックを(一回だけただで)受講し、後輩をだまして教え込む。この時のクリニックの講師は、東京キューバンボーイズの小野寺猛先生であった。
思えばこのときに萌芽があったのだが、1981年、なぜかラテンフュージョンに目覚め、無謀にもホーンセクションを加え、松岡直也&WesingとWillie Boboをレパートリに。松岡バンドから、Orquesta Del Solまでの道のりは近いもの。「Rainbow Love」にたどり着くのは時間の問題であった。この年から、Hyde丹羽はGuitarとCongaの両方を担当。翌年には、ついにGuitarが弾けない体になってしまう。1982年には「中南米音楽」誌上にGuitarを抱いたままtimbalをたたく学生サルセーロとして登場。だが、バンドとしては、女性ボーカルを入れたラテンっぽいポップスバンドへと変貌していく。

<黎明>

1983年6月、Hyde丹羽が出したラティーナの「東海地区にもサルサオルケスタを」という募集記事に呼応して、2人から連絡が入る。ただし、ミュージシャンはわずかにマエストロ小栗師匠ただ一人。もう一人は、なぞのひげ男=レロライ倶楽部会長となるエクトール野口氏。エクトル氏、小栗氏ともに岐阜在住のため、岐阜は長良橋(だったか金華橋だったか?)の袂で会う。この時まだ車を持っていなかったHydeは、前年秋の某TV局の面接で再会(ちなみに二人とも落ちました^^;)した横井に車を出させて同行。この4人に当時岐阜は柳ケ瀬でサルサバー?「ウキウキ」をやっていた本職グラフィックデザイナの西脇氏を加えたメンバで翌月東海サルサ振興会「レロライ倶楽部」を旗揚げする。

レロライ倶楽部としては、月一回の例会のほか会報「Lelolai」の発行、Our Latin Thingやサルサビデオの上映会、大阪のサルサバンド「Salsa El Primero」を呼んでのLiveの企画など、振興会として活発に活動。でも2年ぐらいで息切れする。
一方、例会の中でパーカッションセッションとしてスタートしたバンド構想は、Vo&KBのアルベルトの加入により、徐々にバンドになっていく。

1984年11月、マエストロ小栗の勤務先であった岐阜刑務所で初Live。このときはリズム隊のみでバンド名もなく、演奏もEstrellas De Fania以外に何かできたか、さっぱり記憶がない。
だが、この後マエストロ小栗の転勤などがあり、バンドとしては足踏み状態に。 本格的な活動は、現Timbalero小幡と前任Bajoの吉岡の参加を待たなければならなかった。この間も当時女子高校生のPianoや素性がよくわからないBajo「あらき」ほか何人かのメンバが現れては去っていった。

<夜明け>

1985年ごろ、メンバ探しのため、ライブハウスのジャムセッションのぞきをしていたHydeが立ち寄った当時今池のライブハウスYuccaで現Pinanist水谷ヨシローに出会う。 水谷ヨシローが、なぜHydeの申し出を受けたかは、定かではないが、このとき、ようやくConjunto Domesticoの原型が出来上がった。

1987年にCantaアキコを加え、11月、アキコの通う自由学院短大学園祭で初ライブ(ホーンセクションは春日井カントリジャズオーケストラからのトラでTp×2)。12月、翌年2月と名古屋・橘の茶店人形にてLiveを行う。

1988年には、パーマネントメンバとして、お姉ちゃんホーン隊(Tp,A-sax,T-sax)が参加。1989年3月には、Bongo横井の伝で小牧SCRATCHでLiveを敢行する。

<低迷>
しかし、その後、お姉ちゃんホーン隊、Cantaのアキコと相次いで脱退。さらには、最強のBajoだった吉岡の脱退が決定打となって、CD冬の時代が到来する。
そんな中、1989年11月には、パラダイスカフェ(惜しくも99年2月で閉店となる)でHyde丹羽の結婚披露パーティを開催。このときは、東京から、やはり89年1月に何の因果か当時鎌倉へ転勤中のHyde丹羽が声を掛けて結成されたOrq. A La Genteを呼び、CDも一部ホーンセクションを借りて演奏。
1990年には、バンドとしては11月に一回、その他水谷ヨシローの関連で今池祭りなどでバックバンドとして各種ライブに参加するも、このあたりで吉岡が脱退する。
この冬の時代は、1994年にあたりに東大君/パンチート、1995年に現Bajo"のだっち"を迎えるまでつづいた。

<復活の日>

正直、冬の時代をどう乗り切ってきたか、実は良く覚えていない。 1990年ごろからBajo吉岡が練習に参加しなくなった。
もともと、ホーンセクションの加入問題では吉岡とHydeは意見が対立していた。 「リズムセクションだけでも、怪しくて維持するのが精一杯なところへ、ホーンセクションなんかいれたらぐちゃぐちゃになってしまう」というのが吉岡の主張。
ただし、その対立問題とは関係無く、彼の興味が4beatへと移っていったり、私生活上の問題があったりして、継続できなくなった。

吉岡脱退後、しばらく、練習も滞りがちであった。メンバ募集もままならず、2ヶ月以上も練習が行われない時もあった。また、この間に練習場所に使用していた今池Yuccaが閉店。之をきっかけに水谷ヨシローの貪欲な仕事振りがはじまり、ますます、スケジュール調整が困難になった。
それでも、思い出したように出していたJazzLife誌のメンバ募集によって、1993年〜94年春にかけて、Tp、Tb、Saxなどホーンセクションが加入。1994年夏、小牧スクラッチにて、実にバンドとしては4年ぶりのLiveを行う。ただ、Bajoは空席のままで、覚悟を決めたアルベルトは、猛特訓の上?Bajoを弾きながら歌うという暴挙にでた。 そして、1995年春、Bajoのだっちの加入、また、転勤となったTpイシイの後任として、東大君がひっぱって来たセミちゃんも加わり、1994年8月から3回目となるスクラッチでのライブを敢行。さらに、わがレロライ倶楽部会長エクトール野口氏の尽力により、1995年秋の岐阜歴史博物館デモ演奏依頼をうけた。この、秋のデモ演奏に向けて、Coroの英子/淳子が加入。同年末には、クリスマスパーティのお仕事も舞い込み、この年、完全復活を遂げたのである。

<年の後半にしか活動できない?CD>

復活を果たした95年の翌年、しかし、相変わらず活動は、低調である。
恒例の新年会のあと、96年は、事実上しばらくお休みになってしまった(練習はやっていたのだが、集まりが悪かった)。
96年の活動は、大垣のユネスコ協会のチャリティコンサート出演要請から始まった。このイベントでは、残念なことに音響面で不満足なステージとなった。
自前のPA屋でもよいと言われながら、CD側の勝手な期待で、主催者側紹介のPA担当を選択したのだが、事前に話をしていればバンドのPAには経験のない方たちであることがわかったものを、必要な事前確認・打ち合せ等を怠ったため、それを察知することができず、モニタ、ハウリングなどで、残念ながら不満足なものになってしまった。
一部メンバがその不満を漏らしたことが主催者に伝わったこと、その上に事前に連絡しておいたセッティングを当日になって変更するなどCD側のワガママも重なって、結果として主催者側にも後味の悪いものとなってしまった。このイベントに際してはCD側の責任者が不明確であったことが主原因であり、バンド内の責任所在の明確化が求められた事件である。
96年は、また、Los Hermanos Senorとの出会いの年であった。95年末に妹尾兄弟やのちのセノールのクールなBajoルイス君などから、メンバ募集を見ての連絡があり、練習に遊びにきたり、横山達治大先生のパーカッションクリニックに一緒に参加したり、といった交流を重ね、また、かねてよりの懸案であった、サルサ大好きマスタのいるClubMagoとのタイアップイベント企画もあり、クリスマスイブイブ(ヨウするに天皇誕生日)にライブパーティが実現。これが翌97年からの「なごやdeラテン」の基礎となった。
「なんでそこまで、やるの」というくらいがむしゃらにLiveをこなしていくSenorとは対照的に、わがCDは1997年も低調なスタートで、結局、この年は、終わってみれば、新年会以外は「なごやdeラテン」と「半田deラテン」しかライブをやってない年である。
なお、新年会は、この年から、東大君・セミちゃん所属のビッグバンド「セブンスハード」のドラマーが経営する名駅のスペイン風居酒屋「Bar Espan~a」に会場を移した。
1998年は東大君が、セノール・セブンスハードのT-saxの女性と結婚するというめでたいこと、また、4月から歯医者になるための学校に通うべく、大阪に行ってしまうという、またまた、バンド存続の危機がやってきた。
3月にクダンの披露パーティで演奏。そして、4月からの静かな日々。
幸いバンドは崩壊せず、「サルサde Dancin' in 甲府」で妹尾兄がボラーチョスのLiveを見たのがきっかけ。その4月から、ボラーチョスのチェピート木内が、実は名古屋に転勤していたということで、話があり、セノールは間に合っているということで、兄からCDに紹介。カクして東大君の穴を見事に埋めるやっぱりでかい音のTpが加入となったわけである。 98年のライブもまた「なごや」「半田」だけとはなったが、師匠野村氏の人脈と尽力で、この年の「なごや」は、「得三」という素晴らしいハコでのライブとなった。 また、「半田」は半田市の国際交流イベントという形となり、施設の使用がタダになった(その代わり、入場料もないが)。

<99年、本格始動?!夏の陣>

さて、99年は新年会に前後して産休ラッシュである。年明け早々に無事ご出産のBongo横井、Tb井口の両名はしばらく育児休団と相成った。一方で、かなり困ったことではあるが、創立以来のメンバで、CDにとっては音楽監督とも言えるCantaアルベルトが、家庭の事情や仕事の繁忙さなどの理由で、この4月をもって、無期限の休団となってしまった。またまたバンド存続の大ピンチ到来である。
しかしながら、また、この4月に入り、新たにBongoフリータ山口の加入や、98年後半からのなっちゃんの本格起用を前提に、Hyde丹羽が暫定Cantaに就任して、なんとか乗りきることとなった。今年こそは夏にイベントやりたいね、と、いっていたら、ひょうたんからなんとやらで、いきなり夏イベントが実現してしまった。 7月3日新舞子サルサフェスティバルである。東京から、Banda-Mi-Tierraを迎えてのスペシャルイベントの模様詳細は別掲をご覧あれ。 この夏は、新舞子サルサフェスの後、名古屋は植田の夏祭り、翌日にはリトルワールドにてリズムワークショップ講師などいつになく、盛りだくさんの夏となった。 が、その一方で新舞子の直前には、新規加入予定の新カンタンテが盲腸炎で入院、植田夏祭りの前には、師匠野村氏が結石で入院と故障者が続出した。
夏がすぎ、恒例のバーベキューの季節となったが、今年のバーベキューはまた、スペシャルだった。かねてより計画のサルデコ(サルサde Dancin' in 甲府)ツアーでバーベキューを兼ねてしまおうという趣向。サルデコツアーもまた、実りの多いものだった。あまりといえばあまりにレベルの違う各出演バンドの演奏を目の当たりにし、それでも、やっぱり「来年はサルデコへ!」と決意を新たにした?ものである(甲府の皆様、その節はお邪魔いたしました)。

1999年後半、実は準備開始の遅れも手伝って、2年続いた恒例の秋冬イベントができなくなった。後半は12月にキューバ人インストラクタ、エルメス主催のX'masパーティでの営業のみであったが、これをそつ無くこなし?1999年の活動は終了した。締めて見れば99年も結局、新舞子、植田、エルメスと3回のライブにとどまった。
そして、2000年新年。いつものお客をよぶ新年会ではなく、チェピート宅にてなべを囲むという新しい趣向。ここで、サルデコのビデオなどを見ながら、サルサ談義に花が咲いた(こういうのもいいね)。

<Salsa Night 2000>

さて、2000年のライブはNew Milleniumにちなんで、「Salsa Night 2000」と題してシリーズ化した。
2月5日には、かの東大君在籍(パンチートも在籍していた)大阪Durisimaを呼んでの得三Live「新春スペシャル」。これまた、150人規模の動員を記録し、大盛況、また非常に楽しいライブであった。サルサダンスファンの皆様が居る限り、イベント的にはこれからも成功が期待できる。
ただし、また課題をたくさんつきつけられたライブでもあった。

夏はまた、恒例になるかもしれない新舞子がまたまた大成功、リトルワールドでのリズムワークショップ、クレストンの営業、やまきょうツアー、そして、初遠征「サルデコ10周年」殴り込みなどなど。サルデコは直前の水害にもかかわらず、遠征を敢行。それが人としてよかったのかどうか疑問は残るが、マエストロ末永さんとの共演など得がたい経験をした。また、おそらくサルデコのメレンゲ初演を果たした。
惜しくも9月のやまきょうライブをもって、ボンベリート岡がバンドを去ることになったが、この間の経験でメンバは一皮向けつつある。11月には、Son Reinasの2度めの来名Liveイベント、そしてやっと決まったGrupo Chevereのキューバンスペシャル、といずれも平日ライブを2本もやってしまった。おかげで集客の難しさも思い知った(はじめて赤字)。まだ、わがCDの固定ファンがつくところまでにはとっても至っていない。おごるべからず。 思えば新舞子までの集客が異常なのであって、平日なのに50人も来てくださるお客がいるというのはありがたいこと。肝に銘じて精進すべし。
また、リハーサルはおろかサウンドチェックもなしとはやっぱりなめてる。ちゃんとチェックしてバランスを取らなきゃだめですね。20世紀最後のライブとしては悔いが残った。
また、この11月ライブをもってノダッチがバンドを去ることとなった。95年以来経験のない、また、資料も少ないラテンベースに苦労しつつ、黙々とバンドの屋台骨を支えてくれたノダッチに改めて感謝。
また、夏からの参加で今までにないパワーでホーンセクションを引っ張っていただいた海保さんも、もともと日曜参加が困難だったこともあり、正式参加メンバから退かれた。
2000年は終わってみれば全部で8本のステージとなった。今までは多くても年3本だったから倍以上である。来年もこんなペースでいけるとはとても考えられない。でもいろいろなミュージシャンと共演できて吸収するものも多かった。Durisima, Los Borrachos, La Trova, Latin Jaz' Max, マエストロ末永, やまきょうバンド, Son Reinas, Grupo Chevere。今後それがどのように活かされてくるのだろうか。

<21世紀型Domestico!?>

2月に東京からLos Gordosを迎えてのWinter Specialで21世紀がスタートした。
土曜日開催の効果もあって、久しぶりの100名超の動員。Gordosのすばらしい演奏もよい刺激に。風来坊での打ち上げも多いに盛りあがった。他の地域のバンドを呼んでのライブは、この、ウチアゲでの交流も大きな楽しみなのである。
いろいろ営業話はいただくのだが、なかなか実現できず、申し訳けない状態が続くなか、4月末にはCuban Salsa Dance FestivalでのAfrocubanosとの共演も実現した。このステージでは、コロ陣が軒並み参加できないことから、チェピートのコロデビューでもあった。
残念なことに、ノダッチともども復活以来のドメスティコのフロントを楽しいものにしてくれていた英子が、この営業をもって休団となった。
一方で、2000年末からぼちぼち進めていた選曲委員会も3月で大方の方向性が出た。21世紀型ドメスティコは、ちょっとキューバより、デスカルガがちゃんとできるバンド、参加型ステージが展開できるだけの力をつける、という目標が採択された。

さて21世紀型ドメスティコ、夏までは一切の営業話をお断りし、新ネタの仕込みに励み。7月の新舞子サルサフェスティバルで新曲2曲を披露。また、マササ企画から直前での参加となった新カンタンテ、ミタムラーノもカンタにコロにMCにと外しまくった。
恒例となりつつあるリトルワールドのリズムワークショップも2001年は拡大バージョンでお届け。炎天下の三ステージはしんどかった。
8月は珍しく自分たちのステージは無かったが、チェベレを迎えてのライブイベントを裏方に徹して完遂。
9月には、96年にもお仕事をいただいた大垣ユネスコ様からの再度の出演依頼。そして9月末には、マササ企画の面々とともにサルデコ遠征。
振り返れば2001年より本数は少ないものの内容は濃かった1年であった。また、三河方面のラテンコネクションも一段と強くなった年でもある。サルデコ以降、ひとまず年内すべてのお話しをお断りし、さらに磨きをかけるべく充電することとなった。

<試練の2002年>

2002年前半から中盤は試練の連続だった。
2002年頭にはいよいよワンマンライブか?とも思っていたが、ひとまず2001年後半から さらに充電を経て春からライブ活動開始。 最初のステージはDomingo Salsabor(ドミサル)でのミニライブだった。 このあたりからTimbal小幡が参加できなくなりだした。 このドミサルと5月のミタムラーノの披露宴では、Hydeが唄う合間にTimbalを叩くということで やりくりすることになった。いかにも苦しい構成であった。

恒例新舞子サルサフェスは、例年の開催場所KOKOMOが3月に閉店という事態、 一からの会場探しとなり、結局大須EMSで「大須サルサフェスティバル」となった。 しかも前年中止となったHailaMonpieの来日ツアーが7月との事前情報から、例年より1ヶ月早い6月 の開催という余裕のない日程(結局Hailaは7月に本当に来日したもののツアーはなく夏の間ハウステンボスにいた)。 また前の週には100%生サルサという、もうひとつのライブ イベントと、イベントが目白押しの中、開けてみてれば、116名の集客と夏イベントとしては やや不振な結果となった。おまけにHydeは数日前からのひどい風邪引き、当日になって新カンタンテ のペルアーノ、Toniさんはギャラがないなら唄わないと言い出す始末。期待の星だったが、 音楽への取り組み姿勢の差はいかんともしがたく、残念ながらこのステージが2回目にし て最後の参加となってしまった。
この大須フェス直前にはついにTimbal小幡から継続不能の連絡。万事休すという事態。
ここで思い至ったのがNueva GenetのCOCOさん。トラをお願いしてみると快く引き受けてくれた。
これ以降、彼はリトルワールド以降はついに正式メンバとなり、 Domesticoのリズム隊には大きな刺激剤となっている。
真夏のリトルワールドは名鉄も大変とのことで、過去3年間へのお礼として、ノーギャラでの 演奏を申し出た。
前後して7月と9月には月例イベントDomingo Salsaborに再び出演。 さらに、8月にはBirdにて外様企画(暫定:元々ササマ企画、元マササ企画)のメンバ不足を補う ついでに、2ステージ目をライブジャックしてしまった。
そして3回目のサルデコ遠征。
話がありながら、実らなかった営業話などもあったが、2002年もサルデコまでで8本と、比較的 多めのステージ数となった。
2002年はまた、プロバンドとの交流も多く新たな刺激となった。
大須フェスではSalsonesesの分厚いアレンジに感服。9月のドミサルでは一年ぶりにご一緒した Sabrosura Del Sonidoのさらにパワーアップした姿に参った。そしてChevereの完璧なステージ。 音が完璧だっただけに、集客面で我々のバックアップの力いたらなかったことが悔やまれる。 そして、10月には沖縄から上陸したKachimba1551。客席を巻き込んで楽しませるステージングには 我々にかけているものを見せ付けられた思い。 Kachimbaの面々と打ち上げが共にできなかったのは、返す返すも残念だった。

<ちょっと寂しいLelolai20周年>

さて、Domesticoの母体であるレロライ倶楽部の20周年であった2003年は、Congueraなっちゃんの結婚披露パーティで幕を開けた。わずか3曲であったがほとんどサルサには縁のないパーティ参加の皆さんには結構インパクトあったかな?千葉から淳子も駆けつけた。
この年はその後がうまく続かなかった。
夏イベントの画策をしていたHydeだが、KOKOMO後に入っていた店がまた変わることを知り、新舞子サルサフェスの復活をもくろんだものの、店との交渉はならず。また、8月にイベント出演打診もあったため、身動きとりにくくイベントも組めないでいるうちにそのイベント企画自体が没になった。そんなこんなで2003年は自主ライブのない年となった。
ステージ自体は、いくつかの演奏依頼をこなした。
7月には春日井サンマルシェの盆踊り大会アトラクション。10月には蒲郡ラグーナでのサルサパーティ。12月にはかねてからなかなか実現できなかった岐阜レオンでのライブ。
9月のサルデコは我々が参加しだしてから4年連続の雨だった。
2003年はなんと10年以上前に練習を見に来たことがあるという当時中学生だったドラマーのウンチク近藤君の参加、そしてカンタンテJoseの参加が大きい。
近藤君は、日程都合があいにくいCOCOさんの穴をうめ、振り返ってみれば2003年のほとんどのステージでTimbalを担当。もともとパーカッションを志望していたのに、中学生でドメスティコの練習を覗いて以降ドラムから入ってしまってグルーブという点では、まだまだ課題が多いが、早くドラティンをマスタして欲しいものである。
JoseはToniさん以来のネイティブのカンタンテ。味のある唄である。本来マリアッチ歌手なのだが、サルサを歌いたいとやってきた。
そして10月のラグーナで参加のTpボンベリートけんた。その後仕事の関係でなかなか参加できないが、また何とか参加して欲しいぶっとい音のTpである。
さらには、Domesticoボストン支部と勝手に命名した鍵盤打楽器奏者のファンキー千恵ちゃん。里帰りついでに、最初は木琴で練習に乱入。7月のモンマルシェでは、満を持してMallettoKATを投入したものの電源電圧低下のため機材ダウン(110V機器だった)。それにもめげずピアノの高音部を使ってのソロ!のプロ根性には頭が下がった。帰国時にはまた参加してね。

<新婚ラッシュの2004年>

2004年も早い時期からいろいろお話をいただくものの、なかなか結実せず。結果として7月、8月と連荘で自主ライブの上にManolito来日イベントが続くという無謀+多忙の夏であった。振り返ってみれば、7月10日、17日、24-25日、8月8日、8月13日と夏場だけで5本のライブ。サルデコはDomestico参加以来初の晴天!そして瀬戸Rinconの深夜ライブ、キーちゃんの関連で老人ホームでのボランティアライブ、締めくくりはチェピートとあかりちゃんの披露パーティライブ。締めて9本となった。
2004年からJoseの弟Juanが加入。フロントのペルアーノ兄弟がそろい踏みすることでバリエーションも増やせるベースができた。近藤君も定着。
また、無謀にもChevereの曲"Mira Que Bonita"に挑戦。老人ホームライブでリクエストにしたっがって演奏した"上を向いて歩こう〜Sukiyaki"も将来フルバージョンでと思うひとつとなった。
2004年はまた、おめでたい年でもあった。3月にはマユミが結婚。特に披露パーティはしなかったが、有志で式に駆けつけた。そして、チェピートの結婚宣言、なんと相手はT-saxのあかりちゃん。バンド内結婚は初?ということでサルデコでもご披露、12月の披露パーティは盛況でバンド内ユニットのSonライブも飛び出した。Domesticoのお祝いライブも楽しくやらせていただいた。

<ホーン隊当社比120%の増員だった2005年>

さて、サルデコでも"DomesitcoがTimbaバンドになった!"と驚かれた21世紀型ドメスティコ。
確かにサルデコ初登場時の歌謡サルサ路線はどこへやら。Timbaナンバーあり、NYハイテンションナンバーありの展開。サルデコ2005では、ついにCuban Salsaと紹介されている。でも、2005年の新曲は、プエルトリコの元祖爆弾男Rafael Cortijoのヒットチューン"Bomba Carambomba"、しかもアレンジはNYならではの状況が産んだ異端児Angel Canalesのバージョン。
2005年初頭から、ホーンセクションが大幅増強となった。しかも皆強力な実力派。今後が俄然楽しみとなった。5月にはDe La Fantasia、7月に浜松、瀬戸Rincon、リトルワールドとこなして、そのパワー、厚みが増した。
一方で、新婚にして早くもおめでた!のあかりがリトルワールドのステージをもってしばらく産休となった。
9月サルデコでは"Bomba Caranbomba"でかなぴーさんことSalsonesesの金山さんに一曲お手伝いいただき、ついにSALSAMANIAへのオファをいただいた!(といってもおいそれといけませんが。。。)
10月は内海でのダンスパーティ、豊橋での映画イベントにDos Quiseosと競演。そして11月には得三でチカリンを呼んでの久々自主ライブ。
8月のNagoya Mano a Manoではチケット販売協力が規定枚数に届かず出演ドタキャンとなる事態もあり、自分たちの集客力のなさを思い知った苦い経験となった。

<再び変動の2006年>

さて、明けて2006年。新曲を仕込み始めたはよいが、なかなか始動しないDomestico。
折も折、今度は1999年以降リズム隊の一角を支えてきた山口君が自己のSONバンドを追求するため、脱退というピンチ。
2006年は結局サルデコと11月にiguchitoが請け負ってきたキダーホルトでの演奏のみであった。サルデコではBongoとCoroに元マササ企画の足立さんを迎え、それでも新曲3つの暴挙。うち1曲、その後定番となるSukiyaki〜上を向いて歩こうは、当時は歌うカンタンテがおらず、シラカベケイコさんをゲストに迎えての演奏。マノリートナンバーを2曲投入しTimba比率45%。
さらには、シンセも加えての過去最大規模の総勢17名。
そして11月のキンダーホルトを最後に、マユミが産休に入った。

<2007年、チェピートが休団>

マユミ産休のPFの穴を埋めたキューバ留学帰国組の志穂の加入で、またさらにキューバ傾斜が増加した感のあるDomestico。それでもピアノ交代からの復旧はなかなか時間がかかった。 この年は、カンタンテJuanの住む瀬戸は菱野団地とのご縁で6月と8月の2回にわたってお祭りでの演奏。また、ペルー人のお店Rinconでの2回目ライブとすっかり瀬戸づいた出だしであった。この間一連のライブではBongoのトラが頼めず、HydeがBongoに。
8月にはPF志穂のツテで某大学同窓会様御席での演奏。Timbalウンチク近藤も参加できず、久々にTimbal=Coco、Bongoに山口君という布陣。
また、6月の瀬戸菱野団地で、ゲストに迎えたカンタンテERIKOは、サルデコ2007から正式参加となった。
サルデコ2007では、Bongoにアルマンディート小菅さんを迎えて。
演奏途中からの雨という要素も手伝ってお客様が大いに盛り上がり2バンド目にも関わらずアンコールをいただいた。なお、このサルデコ2007をもってチェピート木内が育児と仕事を理由に休団となった。

<2008年、ウンチク近藤歌手デビュー!>

チェピートお休み、正Bongoは不在な中、2008年の初ステージは結局梅雨まっただなかの58月Goyamoon。ワンマン2ステージを維持するのは相当な困難であった。結果として埋め草選曲ともいえるものになりペルアーノ兄弟の布陣で埋めていく形に。が、将来への布石としては、Maria Cervantesの再演(しかもDelsol版アレンジベース)、そして、Cantando Vivireで近藤君が歌手デビュー。
このあと2008年末にかけて、あらたなピンチ到来。58月ライブ直後から、この数カ月は、Congueraなっちゃんがお休み。急なことでこれ以上トラという状態もままならず、Hydeが1999年以来9年ぶりのConga復帰となった。あおりを受けてレパートリは大幅縮小。しかしながら、新加入ERIKOの持ち曲増加要求もあり、La Ruedaを投入、バタ(Iya)音の変わりにジェンベを使用してみた(があまりよくなかった模様)。このサルデコ2008からもう一人PFにやはりキューバ留学帰国組の茜が参加。
サルデコ後の11月には、愛地球博でキューバとフレンドシップであった岩倉の岩倉南部中学様から御声がかかり、南中フェスへの出演。前夜朝までライブだったJuanは途中でくたばってしまったが、オリジナルのオープニングテーマ、キューバと親しみやすさということで日本語歌詞のGuajira Guantanameraと工夫を凝らし、全校生徒が参加しての感動のラストを迎え、元気をいただいた。

<2009年、脱ペルアーノ依存にむけて再起動中?>

さて、2009年。2008年後半から、Juanが自己のバンドを結成し、リハ参加頻度も格段に減った。幸い、2008年末からなっちゃん復帰。また、皮モノに今泉君が加入。曲折あったもののBongoにチャレンジしてくれることとなり、ここで久々にBon, Con, Timにトラなしの状態となった。ERIKOの持ち曲増加計画も進行し、Bemba Coloraを追加。近藤君についても持ち曲増加。
2009年は7月Urbana Latinaで再びワンマン2ステージ。脱ペルアーノ路線もあって、インストを追加など、冒険も。10回目参加となったサルデコ2009も近藤君2曲とした。
Canando Vivireでは我々にとっての同曲の元祖、当時のOrq.Del Solに在籍された吉田憲司さんをお迎えした。
そして2003年のJose、2004年のJuan参加以来続いてきたペルアーノフロント布陣は、このサルデコ2009が最後となったかもしれない。すでにJoseも離れ、Juanも自己のバンドでの活動をメインするため休団した。
Domesticoとしても2009年に入ってから、脱ペルアーノ依存を進めてきたこともあって、11月には日本人のみでのライブを敢行、課題は多いものの希望は持てる内容で再スタートを切った。

<そして新しい地平へ...>

ここまでがむしゃらに、ただ進んできたDomestico。
名古屋のサルサダンスな方たちには、「踊れない」という厳しい評価もいただく。
選曲も、ニューヨーク、プエルトリコ、キューバ、果てはベネズエラと作法もリズムも節操がない。一体何がしたいのか?このバンドのコンセプトは何なのだろう?
ここへきて、自らの目指す音楽を見つめ直すときにきたようではある。
だが、しかし、それは止まってしまうことを意味してはいない。
たとえ稚拙でも、もう一歩前へ。躓きながらでも走りながら考えるのが我々の作法である。

東海地区サルサ年表(〜1989年まで)


メンバ募集中!!

セカンドTimbal奏者、ハイトーンの男性ボーカル、渋い女性ボーカル、Tp、バリトンSax他ホーンセクション、アレンジャなど
興味のある人はこちらまで

back